■パジャママン出没する

平成15年度のリバイバルヒットと言えば「ディスコ」の再来であろう。 (私的に)

最近、六本木や新宿ではディスコが新たに開店していると聞いている。

テレビ東京系では「今夜はブギウギナイト」と言うディスコ番組をやっていたもんで、
毎週、毎週、テレビ前のリビングで一緒に踊っている恥ずかしい35歳でもある。

とにかく、私はディスコが大好きなのだ!

小学校6年生で、上のサタデーナイトフィーバーのビデオ(英語版)を入手。
訳も解らん英語を聞きながら踊りと音楽を勉強し、工事現場から点灯管、
くるくる回る照明を盗んできては、友達の大きな部屋を勝手にリフォームし、
ディスコを作りナイトフィーバーしていた。
中学生になると、サングラスに上下白のスーツを愛用。
嘘のような話しだが、その格好で中洲、天神を歩き回っていた。
また、行き帰りは自転車をこぐことは言うまでもない....... (^_^;

トラボルタは私の踊りと衣装の原点と言うべき師匠であった。

今考えると子チンピラにしか見えない、恥ずかしい奴だったような....(トラボルタごめんよ)

高校生になると、親不孝にあるディスコ(ラジオシティー)に行き始める。
ラジオシティーは上の写真のよう床に色とりどりの照明があるのでお気に入りだった。
(金が無いので2ケ月に一度くらいしかいけなかったけど)
将来「ディスコを作ってやる」と本気で考えていた夢ある高校生だった。



高校卒業後社会人になる。

いちおう真面目?な社会人生活をおくりディスコ通いをしていた20歳の頃、
私は交通事故で大怪我をし6ケ月も入院するはめになった。

いつも一緒にディスコに行っていた仲間は、私に気を使いディスコ通いを自粛するかと思いきや、
土曜日の病院の夕食をが終わると、病院にやってきて

「たつ! ディスコ行くばい!」 っとやって来るのだった。

おいおい! 貴様らめちゃくちゃ言うばい...

(当時の友達は、こんな奴らばかりなのね)

とても嬉しかったが、怪我で体が動かないもんで1ケ月は、ひっそりと入院生活をしていたが、
次第に回復してきた私は、ディスコで楽しんでいる友達に相談する。

入院中でも土曜の夜はディスコに行けないだろうか? と....

すると、友達は言う!

お前のところは24時間救急病院やけん、まず警備員ば買収するったい!
そしたら、夜中でも帰ってこれろうが....!

おぉ! よか考えやんか!

そして早速、警備員に話をつけたのだった。 買収した内容は想像にまかせるわさ.....
当時、福岡市中央区の薬院駅横にある佐田病院は、そんなことが可能だった。
(病院名を言っちゃった。あらまっ)

私が入院している病院と、親不孝通りのマリアクラブ(ディスコ)の距離は、
歩いて15分のところにあったので、痛む体をひきずりながらでも行けるのだが、
問題は、ディスコに近いだけあって看護婦さんがディスコで踊っていることだった。

こればっかりは、警備員はなんとかなっても看護婦さんは買収できんばい!

 絶対バレる!

っと思っていたが、私はいいことを考えた!!!


覆面をしてディスコに行けば、顔が解らないので踊っている看護婦さんにもバレない!

私って天才!

私は、早速金曜日に「覆面」選びにパジャマと、スリッパのまま
天神のショッピングセンターを歩き回り、つ・つ・ついに!
私にピッタリの「覆面」と出会ったのだった。

それがこれ、

 ←中国の雑貨屋にあった「がんのすけ」はん。

私は、パジャマ姿のまま「がんのすけ」を被り、友達と親不孝の街を歩き
土曜日のディスコへ自信満々で入場するのであった。

笑えることに、ディスコの中では担当の看護婦さんが踊っているが、
暗くてまったくバレないし「お面」を被っているもんで、逆に目立って皆の人気者に。

私は凄い!

誰にもわからない完璧な変装であった!

ディスコで疲れはてて、お面脱いで袋の中へ入れタクシーで病院へ夜中2時頃帰ると、
警備員さんは快くドアを開けてくれて
「怪我さんこと遊ばないかんばい!」っと声をかけてくれる優しさ。

病院では看護婦さんが私を探し回っていたが、便所に2時間居たとか、屋上で星を2時間見ていた、
階段で寝ていた、などと訳わからないことを言うもんで、次第にほっておかれるようになった。

まあ、簡単に言うと「無視」されまくりですなぁ〜

そして病院からディスコ通い味をしめた私は、
入院が暇だし、ストレスが溜るもんで週2〜3回のペースでディスコへ行くのだった。

もちろん、毎度毎度、パジャマ姿、スリッパのまま
 「がんのすけ」を被り夜の繁華街を歩くのだった。



中国のお面も、パジャマに合わせて下のお面も購入し、変装するオシャレも欠かせない。

1面=4000円くらいしたっけなぁ〜

その頃になると、パジャマ・マンはファッションにも気を使うのだった。




そんなある日、
ついに親不孝通りの路上にて看護婦さんが寄ってきて....

「あなた、入院患者のたつさんじゃないの?」 っと聞かれるはめに。

その問いかけにはビクっとしたが、

「ハッハッハッハ 今日の私はマダムヤンなのだ!」

っと言い放つノリノリの私であった!

しかし、右手を骨折しており三角斤で首から右手を吊っていて、パジャマ姿な上にスリッパ、
体系と声にも特徴があるもんで、バレバレやんか!

んぎゃぁぁ〜 

パジャママン、史上最大のピンチ!

パジャママンは、一体どうなってしまうんだ!




完全にバレバレなのに、看護婦さんは、

「ハッハッハッハ 今日の私はマダムヤンなのだ!」

っと言った私が可笑しかったのだろうか、ゲラゲラ笑ったあげく、

「たつさん、早く病院に帰らないかんよ」と優しく言ってくれたもんで、

私は「うん!」と可愛く返事してしまうのであった。

博多の女性は情が厚いことは全国的に認知されている事実なのね!(納得)

その日は、深夜まで看護婦さんと仲間とディスコで踊っていた。

また、パジャママンで深夜歩いている時、ローカルテレビ局がやってきて
インタビューをしたこともあった。(放送したビデオ記録が無いのが残念だ)

長浜公園派出所の警察官からも職務質問されず、笑われていた。

当時のイメージ図
パジャママン

以降、パジャママン(私)はちょいと有名になっていたらしい。

(こっちは入院しとるもんで世間で有名かどうかは知らんが、友達がそう言っていた)

そんなパジャママンは、ディスコでのリハビリが有効だったこともあり、
怪我もよくなり、体力も回復して退院と同時に福岡市の街から居なくなるのだった。

パジャママンの笑えるエピソードは沢山あるが、いずれまた書こう。
(車を運転、コンビニやフェミレスに行く... 当然だが騒動が巻き起こるのだった)




パジャママンが居なくなった5年後、私は今の相方と知り合うことになった。

私は、何げに今までしてきたアホな話を相方にしていると、相方が驚いた顔してこう言った。

相方「私、そのパジャマでお面被ってる人の事を聞いたことがあるよ!」

ワシ「いやいや、実はそれはワシなんじゃ、ハッハッハ」

相方「・・・・・・・・」



そして、こう言った、
マリアクラブの隣にあるデザイン事務所で働いていた相方が、当時覚えていたこととは、

パジャマ、スリッパ姿で中国のお面を被っている人が、
親不孝通りに出没しているから注意しといた方がいい。 その人危ないらしい。

と世間で噂になっとったとよ.....




「・・・・・・・・」 ゚ロ゚!l|

私は、パジャママンに誇りを持っていたのに!
私は、パジャママンが人気者だったと思っていたのに!

パジャママンがそんな風に思われていたなんて、本当にショック......



私は悲しきパジャママン、20歳の記録であった、、、 (^ ^ゞ



」では、「たつの言いたい放題」を自己中心的に書き綴るものである。 もくじへ戻る 表紙へ戻る


<余談>
当時、親不孝通りで遊んでいた人へ
パジャママンは、悲しい理由で出没しとったけん危なくなかったと! それだけ言いたい。