「達の記録館」サブの表紙

日常の喜怒哀楽を写真付きで綴るエッセイ

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元慰安婦の最終的かつ不可逆的な逝去記(1)

[前文]...というわけで、20万人いたと捏造される慰安婦問題について、韓国政府が元慰安婦と認定登録した総数は、2004年の段階で207人、2005年に215人、2014年12月に237人。「最終かつ不可逆的に解決」とした2015年12月28日の日韓慰安婦合意の時点では 238人(うち存命者 47人)と発表しています。

この慰安婦問題は、本人の証言を唯一の証拠としている韓国と、売春婦であったとする客観的証拠が数々ある日本との間で大きく食い違っています。

日本はこの問題に対し、早期解決、最終解決のため謂れのない謝罪と反省と賠償を何度もしてきました。しかし、自称元慰安婦と慰安婦支援団体は日本の対応は不十分だとして更なる謝罪と反省と賠償を求め続け、戦後七十数年経過し高齢となった存命者は1人減り2人減り、その身代わりなのでしょうか? 慰安婦像なるものが1体増え2体増え続けているのが現状です。

元慰安婦らの心の終着駅が何処にあるのか。それは本人にしか分かりませんが、人生の最終的かつ不可逆的に解決という終着駅が「死」であるとするなら安らかなるご冥福をお祈りし、歴史の証言と共に順に記録したいと考えました。

元慰安婦存命 31名
(2018年1月7日 現在)

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尚、お婆さんの証言は時間が経つと二転三転するものや信憑性のない支援団体が発表したものなど、どの証言を記録してよいものか毎回困惑させられますので不可解な点や矛盾した証言はズバッと指摘していきたいところなのですが、(死者に鞭打つことは恥べき行為ですから)本頁では韓国政府、支援団体、報道記事などから、故人の意に添う形で書くようにしています。

47人目が逝去

チェ・ガプスン

2015年12月7日 午前0時56分

チェ・ガプスンさん 享年96歳

全羅南道出身

15歳の時に旧日本軍に連れ去られ、全州、牡丹江などで慰安婦としての生活を強いられた。「罪深き人間から一言も謝罪の言葉を聞いたことがない。日本政府は早く公の場で謝罪し、賠償してほしい。そうすれば彼らに傷つけられた高齢女性たちも少しは慰められるだろう」と話していた。

生存者数残り46人

46人目が逝去

身元公開拒否

2016年2月15日 午後8時29分

チェ・オクイさん 享年90歳

慶尚南道梁山出身 1926年生

16歳の時に日本のビール工場で働かせてあげるという言葉に騙され慰安婦として日本人に連れて行かれ台湾で4年も慰安婦にさせられた。台湾で終戦を迎え故国に戻り結婚。2男1女をもうけた。チェさん家族は身元公開を拒否した。

生存者数残り45人

45人目が逝去

キム・キョンスン

2016年2月20日 午前8時4分

金景順(キム・キョンスン)さん 享年90歳

1926年生 下江原道平昌出身

19歳の時に旧日本軍によって広島県の慰安所へ強制連行された自身の過去を1992年に報告。その後2015年7月に同慰安婦被害者であるユヒナムと共に、明仁天皇、安倍晋三首相、日本政府要人、三菱、トヨタ、産経新聞など20余りの企業を対象に損害賠償請求訴訟も起こした。元慰安婦の名誉回復のため、米サンフランシスコの裁判所へ赴いたこともある。

生存者数残り44人

44人目が逝去

コン・ジョムヨプ

2016年5月17日 午後5時10分

コン・ジョムヨプさん 享年96歳

1920年生 全羅南道出身

16歳の時に仕事を紹介するという日本人に騙され、中国遼寧省海城(旧満州)、上海、ハルビンなどの慰安所へ強制動員された。

生存者数残り43人

43人目が逝去

グレンデール市

2016年5月17日(2名同日死) 時間不明

イ・スダンさん 享年95歳

19歳のとき、故郷の平壌で「工人」の募集広告を見て中国のハルビンに行った。または「中国・ハルビンの工場で働くことができる」と騙され、日本軍によって中国黒龍江省東寧の慰安所へ強制連行された。戦後故郷に帰れず中国黒竜江省東寧市に残り、2005年に韓国国籍を取得した。

生存者数残り42人

42人目が逝去

日本軍と川を渡る慰安婦

2016年6月22日 時間不明

女性の氏名、死因は遺族の意向によりは明らかにされておらず葬儀も非公開で行われた。後援会は「女性は悲劇的な経験をした後、日本政府に対し歴史的な罪を反省するよう求めていた」と発表。戦時中は誰もが悲劇的な体験をしました。日本政府や日本国民は歴史的な罪を深く反省し各国へ様々な支援や援助を行い、これまでに何度も謝罪してきました。そのことをお婆さんたちは知っていたのでしょうか。 2005年に韓国政府が公開するまで、1965年の日韓基本条約の根幹部分を韓国国民は何も知りませんでした。

生存者数残り41人

41人目が逝去

ユ・ヒナム

2016年7月10日 午前8時23分

ユ・ヒナムさん 享年88歳

ナヌムの家 居住者

1928年生 忠清南道牙山市出身

15歳の時に旧日本軍に強制連行され1943年から下関で1年間の慰安婦生活を強要された。2012年よりナヌムの家で暮らし「二度とこうした痛々しい歴史が繰り返されてはならない」と主張。日本の謝罪と法的賠償、被害者の名誉回復を訴え、慰安婦合意について被害者の同意がなかったとして認められないと韓国政府を批判。国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界記憶遺産への登録を求めた。

生存者数残り40人

40人目が逝去

パク・スクイ

2016年12月6日 午後8時40分

パク・スクイさん 享年94歳

1923年生 慶尚南道南海出身

16歳のころ、海岸で貝採りをしていた時に旧日本軍に連れて行かれた。名古屋経由で旧満州に移され7年間にわたり慰安婦としての生活を強いられた。終戦後も直に帰国することができず、さらに7年間旧満州にとどまった後、釜山経由で故郷へ戻った。

生存者数残り39人

2016年12月30日 慰安婦被害者1人を新たに認定。

韓国政府が認定した被害者総数は238人から239名(国内38人、国外2人)となり、存命は39人から40人に増えました。

40人目が逝去

パク・チャスン

2017年1月18日 午前7時30分

パク・チャスンさん 享年94歳

中国湖北省孝感市 居住

1942年に中国内の日本軍占領地域に連行され解放まで中国の湖南省や南京、漢口、武昌などの慰安所で慰安婦生活を強要される。解放後、慰安所を逃げ出したが、羞恥心のために故郷に戻ることができず中国人の夫に出会い養女を育てながら晩年を過ごす。故人は一度も故国の土を踏むこともなく韓国語はほとんど忘れていたが、アリランの歌は覚えていたという。

生存者数残り39人(韓国居住者 38人、中国居住者 1人)

39人目が逝去

イ・スンドク

2017年4月4日 午前7時30分

イ・スンドクさん 享年100歳

ウリチブの家 居住者

1918年生 全羅北道金堤(益山)出身

1934年、17歳のとき夕食を作るために畑の畦でヨモギを採っていたとき、見ず知らずの韓国人男から話しかけられ「私について来れば靴も着物もあげるし、お腹いっぱい食べられる」という言葉に騙され、両親や弟に別れの挨拶もせず旧日本軍によって満州や上海に連れて行かれる。終戦時に帰国し「満州に連れて行かれる際、両親と満足に別れのあいさつもできなかったが、故郷に戻ると2人とも亡くなっていた」「家に帰してほしいと泣けば、返ってくるのは日本軍の暴行だけだった」と悲痛な証言をする。1998年に山口県地方裁判所下関支所で起こした第1審の裁判では1人約30万円(計90万円)賠償金の判決を勝ち取るも、最高裁判所は原告の訴えを棄却した。2015年末の日韓合意では韓国政府を相手取り集団で損害賠償請求訴訟を起こしてる最中だった。

生存者数残り38人

38人目が逝去

キム・グンジャ

2017年7月23日 午前8時4分

金君子(キム・グンジャ)さん 享年91歳

ナヌムの家 居住者

1926年7月8日生 江原道平昌郡出身 3人姉妹長女。

16歳のとき、ある巡査の養女となる。その養父に「お金を稼げる場所があるので行っておいで、稼げなかったら帰ってくればいいから」と言われて朝鮮人の軍人と一緒に行く。(証言は大きく二転三転していくのでここまでしか書けません)

生存者数残り37人

37人目が逝去

ハ・サンスク

2017年8月28日 午前9時10分

河床淑(ハ・サンスク)さん 享年89歳

1928年生 忠清南道瑞山市出身

10代の頃に両親を亡くし、1944年陰暦で6月、17歳の時に朝鮮人男性2人から洗濯工場でお金を稼ぐことができると騙され、1942年に中国漢口の積慶里慰安所で公子という源氏名で慰安婦となる。それ以降60年以上にわたり中国に居住。2003年に帰国し、自身が性奴隷被害者であったことを積極的にアピールし始め死去するまで支援団体より手厚い介護を受ける。

生存者数残り36人

36人目が逝去

慰安婦像と文大統領

2017年8月30日 時間不明

遺族の意向で名前などは非公開 享年93歳

1924年生 北朝鮮北東部の咸鏡北道清津出身

村の共同洗濯場にいたところ旧日本軍に連行され台湾の慰安所で働かされる。連行された時期は本人にも分からないという。2001年7月に韓国政府が慰安婦被害者として登録。共同洗濯場から少女が居なくなれば、ショッキングな出来事に、村人や両親、身内や友達、隣村でも大騒ぎとなり後世に語り継がれていると思います。お婆さんが覚えていなくても連行された時期は誰かが必ず覚えているはずです。そこを調べもせず慰安婦被害者として登録しましたか。誰1人覚えてないなんて不思議です。

生存者数残り35人

35人目が逝去

慰安婦像と文大統領

2017年11月1日 午前

遺族の意向で名前など非公開 享年90歳

「17歳の時、1人で自宅にいたところ、区長と巡査が無条件に付いて来いと言われ、引きずられて連れて行かれた」とし、タイ、シンガポール、ビルマで慰安婦生活をしなければならなかったと挺対協は伝えた。役所のお偉いさんであれば、区長が誰だっかたぐらいは直に判明したはずです。区長を訴えれば悪に加担した巡査らも芋づる式に逮捕できたと思います。動かぬ「証拠」を探さないのは何故ですか。

生存者数残り34人

34人目が逝去

イ・ギジョン

2017年11月11日 午前8時35分

イ・ギジョンさん 享年92歳

1925年4月生 忠清南道唐津出身

18歳(1943年)の頃、日本軍人の服を洗濯する仕事という言葉に騙され、シンガポールやミャンマーなどで従軍慰安婦として連行され辛い経験を強いられた。解放されたのち慰安婦被害の事実を自身の父親にだけ打ち明け、2006年に慰安婦被害者政府登録者になった。支援施設ナムヌの家によると「イさんは15歳でシンガポールに連れて行かれた。看護師になると思って行ったが到着してみると慰安所だった」という。

生存者数残り33人

33人目が逝去

宋神道(ソン・シンド)

2017年12月16日 午後2時10分

宋神道(ソン・シンド)さん 享年95歳

1922年11月24日生 忠清南道出身出身

[東京在住/生活保護 韓国籍の在日朝鮮人]

1938年16歳のとき42~43歳の朝鮮人女性に「戦地に行って働けば金になり、1人で生きて行ける」と言われ中国の慰安所へ行き1938年から終戦までの7年間、兵士の性の相手をした。戦後1946年に日本軍人と日本へ渡るが到着後に軍人と別れる。その後、宮城県女川町で在日韓国人の男性と暮らす。1993年に日本政府へ謝罪と賠償金767億5893万7500円を求めて提訴したが2003年に最高裁で全面敗訴確定。10年もの裁判に臨み体験を語るドキュメンタリー映画「オレの心は負けてない」がある。

生存者数残り32人

2015年12月28日の朴槿恵大統領時に交わされた日韓慰安婦合意について、新政権(文在寅大統領)外務省直轄のTF(タスクフォース:国際政治、国際法、人権問題などの専門家や外交部の職員)9人が5カ月かけて最終検証結果を発表しました。詳しいことはコチラ..

元慰安婦の意思、金銭受給者

存命32人のうち24人75%の元慰安婦が日韓合意を肯定的に受け止めていらっしゃいました。残り8人は慰安婦支援団体の施設入居者のようです。

32人目が逝去

日本軍慰安婦被害者をたたえる日

2018年1月5日 時間不明

遺族の意向で身元非公開 享年89歳

挺対協によると、故人は13歳ごろ工場に連れて行ってやるという言葉に騙され、満州(現中国東北部)で慰安婦として辛い生活を強いられた。日本による植民地支配から祖国が解放され韓国に戻ったが、慰安所での被害がもたらした体と心の病に苦しんだという。誘拐や拉致でない限り、親の許可なく幼い少女が「工場へ連れていってやる」という言葉で家を離れたりなどしない。孤児であっても、いつ帰れるかわからない工場へは絶対に付いていかないし、少女の友達も怪しがって行かせたりなどしない。 【問】この少女を説得できた人は誰。 ①親 ②友達 ③女衒 ④日本軍人

生存者数残り31人

31人目が逝去

To be continued

★管理人より

この逝去記では矛盾の指摘はしません。

何か引っかかった方は故人のお名前で検索し、客観的に書かれてあることを理論的に考えていただければ...と思います。尚、身元非公開の故人はお名前で調べようもありませんので⊕マークで、管理人のちょっとしたコメントを入れています。

決してカウントダウンなどしていません。

最終更新日 2018年1月7日

カテゴリー:韓国

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