「食パン」ではなく「箱パン」といいます。
先日、ビックカメラ天神店へ行き、何か新しい製品はないだろうかと店内をウロウロしていると、キッチン家電のコーナーにホームベーカリー(パン焼き機)が設置されていたので、何か新しい機能が付いたかも?と思い立ち止まった。
買いたいとは思わないけど家にあってもいいなという感じで触っていたところ、売り場の店員さんが寄って来てホームベーカリーはいかがですか?と勧められた。
「(写真のよに)こんな焼きたてのパンが食べれるんでよ」
「焼きたてはとても美味しいですよ」
「朝から自家製のパンなんて素敵ですよね」と...
せっかくなんで「う〜ん、そりゃいいですね。etc...」と店員さんのテンションに合わせ少々話し、そしてパンフレットを貰って売り場を後にした。
そして、いつものドトールでコーヒーを飲みながらパンフレットを取り出し、パンについて色々と考えていたら「焼きたて」とう宣伝文句やフレーズについて妙なことに気がついた。
妙とはズバリこういうことだ。
パン屋さんが鐘を鳴らしながら「いま焼き上がりました。焼きたてでーす」とのアナウンスにつられて、焼きたてのパンを買ったことは何度もあるのだが、焼きたてだからと言ってその場で食べたことはない。
これは「生パン」だからだ。
まっ、小麦を1度は焼いているので生ではないにしても言葉の上では生であり、辞書で生パンを調べると「パン作り工程上で焼く直前のパン生地状態のもの、あるいはトーストしていない食パン」と定義しているので、これは生パンなのだ。
実際の家庭においても、このパンをそのまま食べようとすると、お母さんに「生パンは食べなさんな」と言われてしまう。それに対して「いいや、焼いているんだから生じゃないもんね」と言い返そうものなら「アンタは理屈や屁理屈を言うてから」と怒られるハメになる。
そのことからしても、これが生パンであることが強く立証される訳だ。
ただ、お母さんは子供に理屈や屁理屈だと言うだけで、焼いているんだから生ではないという言い分を論破することも、その根拠を示すことも何1つできないというのが生パンの欠点であり、仮に裁判所で決着をつけようものなら証拠不十分というより、原告お母さんが『生ではないけど生なんです』といっても書面上で棄却されてしまうだろう。
つまり、私が言いたいのは、生の生地とトーストしていないパンが同じ「生パン」としていることで「矛盾した中途半端な不合理パン」になっていることがどうにも納得いかないし、パン屋やホームベーカリーに至っても「焼きたて」と言ったところで辞書や庶民の認識は「生」であって、その生をトースターでもう1度焼くことで誰からも生パンだと言われなくなるのであれば、最終的にトースターから取り出した熱々の状態で始めて焼きたてだと言えるはずなのである。
さらに視点を変えてもう1つ付け加えれば「食パン」というと、あの四角の形をやつを食パンと誰もがいうが、わざわざ「食」って付ける必要があるのかとこれまた疑問でもあり不可解に思える。
過去に食べれないパンがあって、わざわざ「食パン」としたのであろうか?
それなら幼稚園児でも知っている。
食べれないパンは「フライパン」だ。←本件とは関係ないので置いときます。
パッと見てわかるものを「食」と付ける必要はどこにもなく不合理だ。
ただ、私の見解がいくら正しくとも、パン屋さんが「生パンが焼けました」、ホームベーカリーで「生パンが焼けます」と言ってしまうと生っぽくてなんとなくキショク悪く感じるのは私も同じなので、ホームベーカリーやパン屋で焼いている従来のパンを何と呼んだらいいのかを生パンや食パンという同一名で安易に片付けるのではなく、語学が発達した日本であるならは、この形のパンは何と呼んでよいのか正式に定めなければいけない必要性があると私は考えたのである。
さすれば、このパンは製造工程で生の生地を四角い箱にいれて焼き上げる唯一の特徴があることをから、それとこれとは違うという差別化を計り、誰もが勘違いしたり間違えしないためにも「箱パン」とすべきだという結論に私は至った。
それでは、実際に言葉の使用例を上げてみる。
■パン屋では
⇨「焼きたてでーす」ではなく「箱パン焼きたてでーす」
■ホームベーカリーなら
⇨「パンが焼けます」ではなく「箱パンが焼けます」
■家では
⇨「食パン買って来て」ではなく「箱パン買って来て」
⇨「生パン食べなさんな」ではなく「箱パン食べなさんな」
きちんと名付けてやるだけで非常に分りやすい会話になる。
従来からあるこの形の食パンというか生パンは、これから箱パンという名称にしたいと思うのであった。
最後に、食パンについてインターネットで様々な形で検索してみた。 まず「箱パン」と書いている者はおらず(そりゃそうだろ)、生パンと焼きたてパンの認識の違いや日本語の会話などに疑問を持ったり、それを改善しようと新たな名称や呼び名を付けではどうだろうかと提案している者など誰1人として見つけることができなかった。
要するに、私1人だけが疑問に思い書いているということだ。
ここまで熱く語っておいて言うのもなんだが、なんか恥ずかしくなった。
今日はこれぐらいで勘弁しといてやる。
なんじゃそれ...
まっ、日本中の誰もが「生ではないけど生なんです」「食べれるパンが食パンです」という変な日本語を言い続けていればいいさ。
我が家だけは私の独断で「箱パン」と言うだけだ。
以上である。
2013年11月19日 00:07 記録
喜怒哀楽は、作者たつの考えを自己中心的に書き綴るものである。