「達の記録館」サブの表紙

日常の喜怒哀楽を写真付きで綴るエッセイ

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元慰安婦の最終的かつ不可逆的な逝去記(1)

[前文]... 韓国国民は、旧日本軍によって強制された慰安婦被害者が20万人もいるとして世界中に日本の蛮行を過剰に触れ回っています。一方、韓国政府が元慰安婦と認定登録した人数は、2004年の段階で207人、2005年に215人、2014年12月に237人。「最終かつ不可逆的に解決」とした2015年12月28日の日韓慰安婦合意の時点では 238人(うち存命者 47人)と正式に発表しています。増加+1

被害者数が韓国国民と韓国政府の間で異常なほど違っていることはハッキリしていますが、それにも増して異常なのは、本人の証言を唯一の証拠としている(客観的証拠が皆無な)韓国と、売春婦であったとする客観的証拠が数々ある日本との間で事実認識が完全に違っていることです。

この点、旧日本軍が関与(認可・管理・遠征)した慰安婦や慰安所があったことは日本政府も日本国民も認めていますし、否定などしていません。 ただし...強制連行した上で性奴隷にしたという主張についてのみ否定しています。
 否定する理由は、朝鮮人による人身売買業者や誘拐犯を逮捕し女性を救出した新聞記事などをはじめ、慰安婦の預金通帳、高額な給与明細書、連合軍により慰安婦の調書や写真など、性奴隷ではなかったという客観的な証拠が数々残っているからです。
 それに対して、韓国人元慰安婦らは日本軍の慰安所で性奴隷にさせられ地獄の日々だったと語っていながら、地獄の生活を共に過ごした他の被害者女性の名前や顔は何1つ覚えていません。また、親兄弟姉妹、親戚、友達、近所の人、慰安所の従業員や朝鮮人軍人ら第三者の目撃によって裏付けることができる証言すらありません。
 世界中に「女性の普遍的人権」を訴える韓国人なら性を売買することは何よりの犯罪行為であってもようさそうですが、現在でも韓国人遠征売春婦は世界中に10万人(日本に5万人)もいて、遠征売春婦数は世界でトップ。米国で逮捕される売春婦の大半は韓国人です。
 今も昔も、韓国は「性を生業にしてきた」と考えても差し支えないといえます。 [閉じる]

日本は、旧日本軍が関与した事実に対し、早期解決、最終解決のため謝罪と反省と賠償を何度も重ねてきました。しかし、元慰安婦、慰安婦支援団体、韓国国民、韓国政府は日本の対応は不十分だとして謝罪と反省と賠償を終わる事なく求め続け「最終的かつ不可逆的に解決」とした日韓慰安婦合意後にあっても、韓国は日本との約束を履行せず、更なる慰安婦像を立て続けているのが現状です。

そのような中、戦後七十数年経過し高齢となった自称元慰安婦は1人減り2人減っています。

被害者だという元慰安婦たちの心の終着駅が何処にあるのか。それは本人にしか分かりませんが、人生の最終的かつ不可逆的に解決する終着駅が「死」であるとするなら安らかなるご冥福をお祈りし、歴史の証言者を記録しておきたいと思いました。

元慰安婦存命 27名
(2018年7月2日 現在)

矢印マーク 直近の故人まで移動

尚、お婆さんの証言は時間が経つと二転三転する不可解なものや信憑性のない支援団体が発表したものなど、いつの時点で、どの証言を記録してよいものか? 客観的にも多くの矛盾を指摘したくなりますが、死者に鞭打つことは恥べき行為ですから本頁では、支援団体、報道記事などから故人の意に添う形で書くようにしています。

47人目が逝去

チェ・ガプスン

2015年12月7日 午前0時56分

チェ・ガプスンさん 享年96歳

全羅南道出身

15歳の時に旧日本軍に連れ去られ、全州、牡丹江などで慰安婦としての生活を強いられた。「罪深き人間から一言も謝罪の言葉を聞いたことがない。日本政府は早く公の場で謝罪し、賠償してほしい。そうすれば彼らに傷つけられた高齢女性たちも少しは慰められるだろう」と話していた。

生存者数残り46人

46人目が逝去

身元公開拒否

2016年2月15日 午後8時29分

チェ・オクイさん 享年90歳

慶尚南道梁山出身 1926年生

16歳の時に日本のビール工場で働かせてあげるという言葉に騙され慰安婦として日本人に連れて行かれ台湾で4年も慰安婦にさせられた。台湾で終戦を迎え故国に戻り結婚。2男1女をもうけた。チェさん家族は身元公開を拒否した。

生存者数残り45人

45人目が逝去

キム・キョンスン

2016年2月20日 午前8時4分

金景順(キム・キョンスン)さん 享年90歳

1926年生 下江原道平昌出身

19歳の時に旧日本軍によって広島県の慰安所へ強制連行された自身の過去を1992年に報告。その後2015年7月に同慰安婦被害者であるユヒナムと共に、明仁天皇、安倍晋三首相、日本政府要人、三菱、トヨタ、産経新聞など20余りの企業を対象に損害賠償請求訴訟も起こした。元慰安婦の名誉回復のため、米サンフランシスコの裁判所へ赴いたこともある。

生存者数残り44人

44人目が逝去

コン・ジョムヨプ

2016年5月17日 午後5時10分

コン・ジョムヨプさん 享年96歳

1920年生 全羅南道出身

16歳の時に仕事を紹介するという日本人に騙され、中国遼寧省海城(旧満州)、上海、ハルビンなどの慰安所へ強制動員された。

生存者数残り43人

43人目が逝去

グレンデール市

2016年5月17日(2名同日死) 時間不明

イ・スダンさん 享年95歳

19歳のとき、故郷の平壌で「工人」の募集広告を見て中国のハルビンに行った。または「中国・ハルビンの工場で働くことができる」と騙され、日本軍によって中国黒龍江省東寧の慰安所へ強制連行された。戦後故郷に帰れず中国黒竜江省東寧市に残り、2005年に韓国国籍を取得した。

生存者数残り42人

42人目が逝去

日本軍と川を渡る慰安婦

2016年6月22日 時間不明

女性の氏名、死因は遺族の意向によりは明らかにされておらず葬儀も非公開で行われた。後援会は「女性は悲劇的な経験をした後、日本政府に対し歴史的な罪を反省するよう求めていた」と発表。戦時中は誰もが悲劇的な体験をしました。日本政府や日本国民は歴史的な罪を深く反省し各国へ様々な支援や援助を行い、これまでに何度も謝罪してきました。そのことをお婆さんたちは知っていたのでしょうか。 2005年に韓国政府が公開するまで、1965年の日韓基本条約の根幹部分を韓国国民は何も知りませんでした。

生存者数残り41人

41人目が逝去

ユ・ヒナム

2016年7月10日 午前8時23分

ユ・ヒナムさん 享年88歳

ナヌムの家 居住者

1928年生 忠清南道牙山市出身

15歳の時に旧日本軍に強制連行され1943年から下関で1年間の慰安婦生活を強要された。2012年よりナヌムの家で暮らし「二度とこうした痛々しい歴史が繰り返されてはならない」と主張。日本の謝罪と法的賠償、被害者の名誉回復を訴え、慰安婦合意について被害者の同意がなかったとして認められないと韓国政府を批判。国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界記憶遺産への登録を求めた。

生存者数残り40人

40人目が逝去

パク・スクイ

2016年12月6日 午後8時40分

パク・スクイさん 享年94歳

1923年生 慶尚南道南海出身

16歳のころ、海岸で貝採りをしていた時に旧日本軍に連れて行かれた。名古屋経由で旧満州に移され7年間にわたり慰安婦としての生活を強いられた。終戦後も直に帰国することができず、さらに7年間旧満州にとどまった後、釜山経由で故郷へ戻った。

生存者数残り39人

2016年12月30日 慰安婦被害者1人を新たに認定。

韓国政府が認定した被害者総数は238人から239名(国内38人、国外2人)となり、存命は39人から40人に増えました。

40人目が逝去

パク・チャスン

2017年1月18日 午前7時30分

パク・チャスンさん 享年94歳

中国湖北省孝感市 居住

1942年に中国内の日本軍占領地域に連行され解放まで中国の湖南省や南京、漢口、武昌などの慰安所で慰安婦生活を強要される。解放後、慰安所を逃げ出したが、羞恥心のために故郷に戻ることができず中国人の夫に出会い養女を育てながら晩年を過ごす。故人は一度も故国の土を踏むこともなく韓国語はほとんど忘れていたが、アリランの歌は覚えていたという。

生存者数残り39人(韓国居住者 38人、中国居住者 1人)

39人目が逝去

イ・スンドク

2017年4月4日 午前7時30分

イ・スンドクさん 享年100歳

ウリチブの家 居住者

1918年生 全羅北道金堤(益山)出身

1934年、17歳のとき夕食を作るために畑の畦でヨモギを採っていたとき、見ず知らずの韓国人男から話しかけられ「私について来れば靴も着物もあげるし、お腹いっぱい食べられる」という言葉に騙され、両親や弟に別れの挨拶もせず旧日本軍によって満州や上海に連れて行かれる。終戦時に帰国し「満州に連れて行かれる際、両親と満足に別れのあいさつもできなかったが、故郷に戻ると2人とも亡くなっていた」「家に帰してほしいと泣けば、返ってくるのは日本軍の暴行だけだった」と悲痛な証言をする。1998年に山口県地方裁判所下関支所で起こした第1審の裁判では1人約30万円(計90万円)賠償金の判決を勝ち取るも、最高裁判所は原告の訴えを棄却した。2015年末の日韓合意では韓国政府を相手取り集団で損害賠償請求訴訟を起こしてる最中だった。

生存者数残り38人

38人目が逝去

キム・グンジャ

2017年7月23日 午前8時4分

金君子(キム・グンジャ)さん 享年91歳

ナヌムの家 居住者

1926年7月8日生 江原道平昌郡出身 3人姉妹長女。

16歳のとき、ある巡査の養女となる。その養父に「お金を稼げる場所があるので行っておいで、稼げなかったら帰ってくればいいから」と言われて朝鮮人の軍人と一緒に行く。(証言は大きく二転三転していくのでここまでしか書けません)

生存者数残り37人

37人目が逝去

ハ・サンスク

2017年8月28日 午前9時10分

河床淑(ハ・サンスク)さん 享年89歳

1928年生 忠清南道瑞山市出身

10代の頃に両親を亡くし、1944年陰暦で6月、17歳の時に朝鮮人男性2人から洗濯工場でお金を稼ぐことができると騙され、1942年に中国漢口の積慶里慰安所で公子という源氏名で慰安婦となる。それ以降60年以上にわたり中国に居住。2003年に帰国し、自身が性奴隷被害者であったことを積極的にアピールし始め死去するまで支援団体より手厚い介護を受ける。

生存者数残り36人

36人目が逝去

慰安婦像と文大統領

2017年8月30日 時間不明

遺族の意向で名前などは非公開 享年93歳

1924年生 北朝鮮北東部の咸鏡北道清津出身

村の共同洗濯場にいたところ旧日本軍に連行され台湾の慰安所で働かされる。連行された時期は本人にも分からないという。2001年7月に韓国政府が慰安婦被害者として登録。共同洗濯場から少女が居なくなれば、ショッキングな出来事に、村人や両親、身内や友達、隣村でも大騒ぎとなり後世に語り継がれていると思います。お婆さんが覚えていなくても連行された時期は誰かが必ず覚えているはずです。そこを調べもせず慰安婦被害者として登録しましたか。誰1人覚えてないなんて不思議です。

生存者数残り35人

35人目が逝去

慰安婦像と文大統領

2017年11月1日 午前

遺族の意向で名前など非公開 享年90歳

「17歳の時、1人で自宅にいたところ、区長と巡査が無条件に付いて来いと言われ、引きずられて連れて行かれた」とし、タイ、シンガポール、ビルマで慰安婦生活をしなければならなかったと挺対協は伝えた。役所のお偉いさんであれば、区長が誰だっかたぐらいは直に判明したはずです。区長を訴えれば悪に加担した巡査らも芋づる式に逮捕できたと思います。動かぬ「証拠」を探さないのは何故ですか。

生存者数残り34人

34人目が逝去

イ・ギジョン

2017年11月11日 午前8時35分

イ・ギジョンさん 享年92歳

1925年4月生 忠清南道唐津出身

18歳(1943年)の頃、日本軍人の服を洗濯する仕事という言葉に騙され、シンガポールやミャンマーなどで従軍慰安婦として連行され辛い経験を強いられた。解放されたのち慰安婦被害の事実を自身の父親にだけ打ち明け、2006年に慰安婦被害者政府登録者になった。支援施設ナムヌの家によると「イさんは15歳でシンガポールに連れて行かれた。看護師になると思って行ったが到着してみると慰安所だった」という。

生存者数残り33人

33人目が逝去

宋神道(ソン・シンド)

2017年12月16日 午後2時10分

宋神道(ソン・シンド)さん 享年95歳

1922年11月24日生 忠清南道出身出身

[東京在住/生活保護受給者 韓国籍の在日朝鮮人]

1938年16歳のとき42~43歳の朝鮮人女性に「戦地に行って働けば金になり、1人で生きて行ける」と言われ中国の慰安所へ行き1938年から終戦までの7年間、兵士の性の相手をした。戦後1946年に日本軍人と日本へ渡るが到着後に軍人と別れる。その後、宮城県女川町で在日韓国人の男性と暮らす。1993年に日本政府へ謝罪と賠償金767億5893万7500円を求めて提訴したが2003年に最高裁で全面敗訴確定。10年もの裁判に臨み体験を語るドキュメンタリー映画「オレの心は負けてない」がある。

生存者数残り32人

2015年12月28日の朴槿恵大統領時に交わされた日韓慰安婦合意について、新政権(文在寅大統領)外務省直轄のTF(タスクフォース:国際政治、国際法、人権問題などの専門家や外交部の職員)9人が5カ月かけて最終検証結果を発表しました。詳しいことはコチラ..

元慰安婦の意思、金銭受給者

存命32人のうち24人75%の元慰安婦が日韓合意を肯定的に受け止めていらっしゃいました。残り8人は慰安婦支援団体の施設入居者のようです。

32人目が逝去

日本軍慰安婦被害者をたたえる日

2018年1月5日 時間不明

遺族の意向で身元非公開 享年89歳

挺対協によると、故人は13歳ごろ工場に連れて行ってやるという言葉に騙され、満州(現中国東北部)で慰安婦として辛い生活を強いられた。日本による植民地支配から祖国が解放され韓国に戻ったが、慰安所での被害がもたらした体と心の病に苦しんだという。誘拐や拉致でない限り、幼い少女が「工場へ連れていってやる」という言葉で親の承諾なく家を離れたりなどしない。孤児であっても、いつ帰れるかわからない工場へは絶対に付いていかないし、少女の友達も怪しがって行かせたりなどしない。 【問】工場へ行くよう少女を説得した人は誰。 ①親 ②友達 ③女衒 ④日本軍人

生存者数残り31人

31人目が逝去

慰安婦イヨンスとトランプ大統領

2018年2月14日 午前6時40分

キムさん 享年88歳[ナヌムの家の入居者]

遺族の意向で身元非公開/ナヌムの家の説明によると、1930年に京畿道平沢生まれ。16歳の時に日本の岡山に連れて行かれ、慰安婦としてつらい生活を強いられた。解放(終戦)後に故郷に戻り、2012年10月から同施設で暮らした。脳卒中と認知症を患っていた。1930年生まれで16歳なら連れて行かれたのは1946年になります。終戦は1945年8月のことです。数え年であっても敗戦濃厚な1945年に、わざわざ朝鮮から慰安婦を移送してくるだけの油の余裕など日本軍にはありませんでした。また、ろくな食べ物もなかった日本本土。その年に本当に連れて行ったなら日本人よりも優遇されて大切に扱われています。

生存者数残り30人

30人目が逝去

アン・ジョムスン

2018年3月30日 午前10時30分

アン・ジョムスンさん 享年90歳

1928年ソウル麻浦生まれ。14歳の1942年に「何歳までの女たちは大きな精米所の前に皆集まれ」という街頭の放送を聞いて未亡人の母親と行った。米を量る秤に順に上がって、歳は幼いが体重があるという理由でトラックに乗せられた。母はトラックに掴まりなぜ私の娘を連れて行くのかと銃を構えた日本の軍人と朝鮮の人々に泣き叫んだ。日本軍によって中国大陸の慰安所へ連れていかれ、終戦後は昼も夜も歩き続け1946年に帰郷。モチ蒸し器を頭にのせて娘が帰ってくるよう祈りながら売り歩いた母と劇的に対面したが、その後の人生は寂しかった。

2002年から従軍慰安婦問題の活動家として「日本の心のこもった謝罪を受けるのが最後の望み」と語り活動を続けた。生涯独身。

生存者数残り29人

29人目が逝去

チェ・ドクリェ

2018年4月23日 午前

チェ・ドクリェさん 享年97歳

挺対協によると、チェさんは同会が主催する元慰安婦の人権キャンプや証言集会には参加して来なかった。遺族の意向で葬儀は非公開で行われるという。Google検索してもチェ・ドクリェさんの情報は死亡記事以外、何1つ出て来ません。自分は被害者という方が沈黙し続けた謎の人。それでも韓国政府から元慰安婦に認定されるとお金が貰えます。

生存者数残り28人

28人目が逝去

キム・ボクドゥク

2018年7月1日 午前4時

金福得(キム・ボクドゥク)さん 享年101歳

1918年1月14日(陰暦12月17日)慶尚南道統営市生まれのキムさんは1939年22歳のとき、工場に就職させると徴用募集人の言葉に騙され中国の大連からフィリピンに連れて行かれて慰安婦になったという。1994年に慰安婦被害者として韓国政府に登録され、国内外で積極的に被害者活動を続けてきた。

2015年12月の日韓慰安婦合意により翌年の10月と11月に「和解・癒やし財団」から計1億ウォン(約980万円)を受領するも、財団が勝手にやったことで本人は知らないと言う。日韓合意は精神的、物理的にも苦痛だったとして韓国政府に対し損害賠償請求訴訟を起こしていた。判決を待たず亡くなる。

生存者数残り27人

27人目が逝去

To be continued

★管理人より

この逝去記では個々の矛盾は指摘しません。

何か引っかかった方は故人のお名前で検索し、客観的に書かれてあることを理論的に考えていただければ...と思います。尚、身元非公開の故人はお名前で調べようもありませんので⊕マークで、管理人のちょっとしたコメントを入れています。

最終更新日 2018年7月2日

カテゴリー:韓国/北朝鮮

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